ハ ウ リ ン キ ャ ッ ツ

 五線譜という名の線路を辿り、きみと奇跡を探しに行こう。

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からっぽの、優しい闇

私はいま思い返してもじつに健やかな妊婦だったとあきれるくらいで、つわりもなければ出産に対しての不安要素もなにひとつなかった。最後の方まであまりおなかも目立たなかったので、ろくにマタニティも買わずにすませてしまった。それでも、妊娠の終わりに入った9ヶ月目くらいからはおなかは重いし中でぐにょぐにょエイトは動くしでそうとうつらかった。わりに心配性なので、エイトが暴れれば「胎児 動き過ぎ」でネット検索し、いちにち妙に動かない日があればそれはそれで不安になり「胎児 動かない」で調べて慄然とする日々。そういう性質は、いまでもあんまり変わらない。「生後5ヶ月 発達」とかで調べちゃう。でもネットの事例ってよかれわるかれ極端だから、それほど役に立ったためしがないのよね。妊娠後期、暇で暇で「出産 痛い」とか検索しまくってたけど、あれもするだけ無駄だったわね。よけい怖いだけで痛みが軽減するわけじゃないし。痛いのが最大の悩みだったなんて、いま思うとあまりにのんき過ぎるわ……。

私はマタニティマークも「ダセェ」と一度もつけなかった不良妊婦だったけど、それでもおなかが目立つようになるにつれ、いろんな人にずいぶん優しくしてもらった。日本は妊婦や小さいこども連れにつめたいと言われているが、私はけっこう助けてもらったなあと思っている。でも、スーパーの店員さんがかご持ってくれたりしたので、もう感激していたからな。そもそも手伝われる気が全くなかったから「みんなやさしいなあ」と思えていたのかもしれない。これで早産気味とか、つわりがひどかったりだったら「なんでみんなこんなに無関心なんだろう」って思ったかもなあ……私はさっきも書いた通りマタニティマークつけてないから電車で席譲ってもらえるなんてことはいっさいなく、それは当然だと思ってたけど、マークつけてたってそもそも妊婦に席譲ってる人なんてぜんぜん見たことなかったもの。自分が妊婦になると、やたら妊娠した人やマタニティマークが目につくようになるんだよね。「何ヶ月かな?」って、ほのぼの見ちゃう。でもみんな、ほかの人と同じようにふつうに立ってたもんね。だからどんな小さなことでも、優しくされるとよけいにそれが強烈な印象として残るのかも。改めて考えてみると、妊婦になってからいま、ちびっこエイトをつれて買い物とか行くようになるまでの間、私が優しくしてもらったのって、ぜんぶ「おばちゃん」からなんだよね。たぶん、子育てした経験のある人。スーパーでかご運んでくれたあの人も、バスで席譲ってくれたあの人も、道でエイトに「お利口ねえ」って言ってくれたあの人も。

世の中にはいろんな人がいるから、一概に「こどもを持たないと一人前じゃない!」なんて言うのはやっぱり間違ってると思う。こどもを持っても頭のおかしい呆れた馬鹿を私はたくさん見てきたし、反対に、こどもいなくて独身でも素敵な女性を私はいっぱい知ってる。でも、ひとつの経験として、母親になる道を選択できるということは、女性としてとても素晴らしいことだと、私はこどもを産んでみて、そう思う。もしもこれからそう出来るチャンスがあるなら、こども産みなよ、楽しいよ、って、みんなに言いたい気持ちがある。

私の出会った「おばちゃん」たちがみんな私とエイトに優しかったのは、やっぱり子育ての経験があるからだと思う。自分が大変だったから、下の世代も苦しめばいい、そんな体育会系(自分が先輩にしごかれたから、後輩をしごく、みたいな)の考えはみんな全然なくて、今はいろいろ便利なものがあるから、どんどん楽すればいい、その方がこどもものびのびするんだから、って笑ってくれた。私なんて紙おむつが布だったって思うだけで発狂しそうになるのに、おばちゃんたちはみんなそんな時代にこどもを育てて、送り出してきたのだと思うと、ほんとに頭が下がる。次の世代が自分たちよりも良くなるように、楽であるように、そう思ってくれる人たちがたくさんいたから、育児の負担はずいぶん軽減されていると思う。こどもが少なくなっているせいもあるけれど、この分野の進化って目覚ましいものがあるんじゃなかろうか。
エイトのことを何度も何度も「かわいいわねえ」「こどもはいいねえ」「目が綺麗だねえ」「お利口だねえ」って、おばちゃんたちは口を極めてほめてくれる。それが、私みたいな新米カーチャンにどれだけ心強く響くことか。もちろん私が会ったおばちゃんたちがたまたま心優しい人たちだったのかもしれないけれど、そういうおばちゃんに会うたびに、私は、いままで感じたことがなかった「連帯感」みたいなものを確信するようになった。それは例えば「クロマニヨンズが好き」とかそういうサークル的な好悪の連帯じゃなくて、もっと大きなつながり。いつか遠い日、このおばちゃんにも私みたいなときがあって、泣きわめく息子に手を焼いたり、熱が出て心配したりして、それでひとりかふたりのこどもを育てて、いま、こうして筋張った手でエイトをなでてくれている。このおばちゃんは、未来の私なんじゃないかとふっと思う。時間を超えた連帯感、若い日のそのおばちゃんと手を取り合っているような、そんな広い連帯感。

女は子宮でものを考える、という理論はともかく、女は子宮で連帯する、ということはあると私は思う。女という生き物は産まれつき体の中に空洞を持って産まれてきて、やがて空洞を抱えて死んで行く。どれだけうまくいっても、生涯でその空洞が満たされる期間というのは、たった数年しかない。月が満ちたときのその膨満感と、こどもが産まれた後の妙な空虚。前にもハウリンキャッツに書いたことがあるけれど、私はずっと自分が女性であることに違和感と羞恥を感じていた。でも、例えば男だったらきっとこの世界では弱すぎて生きて行けなかっただろうということもわかってる。自分が女性であることに慣れようとして、いろんなことを考えて、いろんなふうに屈折したり迷走したりを繰り返してきた。そんな私が、こどもを孕み、産み落として、自分の中にある深い深い女としての空洞を実体験としてありありと知ったことで、ようやく自分が女性であることにこころから納得できたような気もする。

出産というのは、自分が抱えている優しい闇に気づくための過程でもある。私たちはみんなからっぽだ。でもその空っぽの中から人は生まれでてくるのだ。エイトを産んでみて私は、自分が人類という大きなムレの中にいるのだということを強く感じるし、こどもを産んだすべての女たちに対して敬意と愛情、親密な空気を抱くようになった。女はからっぽで、どん欲で、醜い。でも、からっぽだから、たぶん男より多く夢を見ることが出来る。からっぽな部分にこどもや夢や愛をぎゅうぎゅうに詰め込んで、その絆の深さでつながり合うことが出来る。

わたし、女に産まれてよかったよ。エイトをしっかり抱きしめて育てて、いつか年をとった日には、わたしを励ましてくれたおばちゃんたちのように、だれかのこどもを「かわいいわねえ」「こどもはいいねえ」「目が綺麗だねえ」「お利口だねえ」って褒めたい。そうやって女たちが連帯して行くのなら、私はその一部になりたい。しなやかに柔らかい闇の端っこをつかむようにして、妻とか母とか、いろんな形に自分を変えながら、流れ着くところまで流れて行きたい。

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